2013年09月21日

まさか、また・・

まさか

またもや

被災地ボランティアで動くとは思いませんでした

僕たちは今、旧高島町にいるのですが

台風の被害範囲でいえば

高島市内で旧高島町の被害面積が一番広範囲らしいのです

歩いていける支所にボランティアセンターができ

毎日のように通っています

写真 minamikamo.JPG
(川ではありません、ここは田んぼです、道路も崩落しています)

現場も自宅から車で5分ほどの集落です

ほんとちょっとした差なんですよね

洪水にやられたかどうかって

大丈夫な家はほんまにいつものまま

それが隣に行くと大惨事・・

ほんと気の毒です

残酷です

いま、僕たちが住んでいる家の隣りの砂利の駐車場

そこにも避難されてきた方がテントを作り、荷物を置いています

相方がパンを焼き、手づくりジャムと一緒に差し入れしてくれてました

少しでも気持ちとお腹が温かくなればいいです

さて

作業の内容は東北の震災とかわりませんが

津波か川の氾濫か

2ヶ月後か3日後か

の違いはあります

まず土砂の性質も違います、水分も多く、まだ蒸発してないので

重い

そして津波のときほど異物は混入していませんでした

臭いもまだましです

でもだんだん臭ってきました

各家庭で状況は変わってくるものの

だいたい

家財道具の移動、撤去

床剥がし

床下の泥だし

庭の泥かき

側溝の泥かき

が仕事です

冷蔵庫やタンスなども水に浸かってもう廃棄です

150cmほど洪水がきたので

もう1階は全滅です

キッチンや仏壇、机などもアウトです

冷凍庫内では泥水がカチコチに固まっていました

床板やふやけた壁板はバールで壊して剥がします

セルフビルド経験、古民家改修経験がここで活きるとは・・

床下の泥はまだ水分たっぷりで重いです

鍬やスコップでかき出しバケツに入れ

それを一輪車に移し外まで運び指定場所に捨てます

ひたすら人力です

床下の泥で深いところは20センチも積もっていました

田舎の家は庭も広いので

植木や縁側の下などにも泥が入り固まりそれを取るのも大変です

相方・相浦ちゃんも午前中、暑い中庭の泥かきをしていました

女性にはきつかったようで、後日身体が痛そうでした

21日現在、その集落では道に各家庭の大型ゴミや(ゴミやないんやけど・・)

瓦礫が山積みで道も狭くなっていて重機が爆音をたてて動き回っています

乾燥していてホコリもまっています

ただ東北の被災地に行っていたことで

動き方や作業の段取りがわかっていたので

スムーズに動くことができました

経験が活きたことになりますが

あんまりこういう経験は少ないほうがいいですよね

(詳しくは震災の日記をお読みください)

去年は大津の石山寺の災害ボランティア

今回はわが町、高島

災害が身近にある感じがしています

高島町だけでなく朽木や椋川もかなりひどい状況らしいです

ボランティアの力を借りて行政と一体となって

少しでも早い復旧を目指します

憧れて移住してきた高島が

また平和になるように

被災された方を応援していきたいと思っています

あと

高島市内の琵琶湖岸で放射性物質を含む

不法投棄の木材チップが発見されたました

なんと我が家から車で5分ほどの距離です!!!

もちろん立ち入り禁止です、遮断シートもかぶしてあります

こっちではかなり怒りや不安の声があがっています

犯人も特定できているようです、また注目してきたいです

線量はその場所に一日8時間いつづけて

かつ、それを365日し続けると1ミリシーベルトを超える量とのこと

なので超微量です(その報道がホンマなら・・)

湖でも魚でも検査ではなにも検知されなかったようです

なのでとりあえずは現状維持ですが

非常に気分が滅入る事件でしたが

ご心配ありません、大丈夫ですー

今度はいいニュースが書けますように!

posted by soulive9 at 19:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月17日

災害、再び・・

台風18号による被害は相当なものでした

ここ高島でも、地元のかたいわく50年ぶりだそうです

心配されてる方もいると思いますので

まずは報告です

「荒木家は無事です、怪我もしておりません、大丈夫です!」

しかし、被災された方々も多くいるので気持ちは明るくありません

朽木という山の地域に住んでいる方々は

土砂崩れなどによる通行止めのため自由に動けないようです

また音楽イベントにきていた人たちも脱出できなくなり

地元の方の家に避難されたそうです

たった二日で朽木は430ミリの雨!!

9月の平均雨量が全部で130ミリほどということを考えれば

おばけ級の雨やったことがわかります

高島には安曇川という大きな河川があり

河川敷も橋も立派なものがあるのですが

その河川もほぼ氾濫しかけたようで

確認はできてませんが小さな決壊もあったようです

避難勧告の地域、通行止め、床下浸水

家裏の山崩れ・・・、あちこちで被害がありました

うちの家から1キロもいかない地域でも通行止めになり

田んぼが海のように水没して荒れ狂っていました

危険ではありましたが、田んぼも見に行きました

車が風であおられるし、合羽をきて外に出ると強風で飛ばされそうでした

稲は45度以上は倒れ、大豆や小豆も倒れ、たまった水の中に浸っていました

それでも稲は一割ほどの被害、豆はもう一度起こしてしっかり土寄せすれば

自立してくれそうでした、強い!

一夜あけて

快晴

何事もなかったかのような空

ほんま自然の神様にはかなわない

今日は笑ってはります

昨日は怒ってはりました

人間ってやっぱ小さいです

だからこそ一喜一憂すんでしょうね

高島を含め早く復旧が進み

少しでも収穫できますように!

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黄土色は海やなくて田んぼです
でも海ぐらい水がきてました

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道路が水没して通れませんでした

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帰宅して急いで避難できる用意をしました

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倒れた豆たち

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傾いた稲たち、がんばったね、ありがとう!
posted by soulive9 at 11:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月14日

3・11から9・11まで

僕はあの瓦礫の中に立ったときの地獄の様な光景を忘れることができへん。

そう

毎日が『非日常』になって半年。

人々はその非日常をどう受け止めているんやろうか。

無慈悲とも思える自然の猛威に打ちのめされ、

絶望に突き落とされた人々、

そして、それを安全な部屋から、

無機質な四角いTV画面を通して見続けるしかできなかった人々、

神様

その線引きはなんなん?

怒り狂った大嵐が近畿南部に大きな爪あとを残した。

山が崩れ、家がつぶされ、人までが飲み込まれた。

這い出てきた人々、

そして、それを言葉を失って凝視する人々、

同じ雨に激しくうたれ、

以前は同じ日常を過ごしていた私たち、

神様

その線引きはなんなん?

『考えろ』

ってことやろうか。

ずっと私たちは

巨大で、無慈悲で、獰猛で、荒々しい

でも神秘的で、神々しいもののすぐ隣で息をしてきたんやろう。

でも、それを感じることは少なかった。

現代の日常のスピードでは感じることもなかった。

ほんまに私たちは絶対的に平等で中立的な自然の中で

生かされてるんやろうな、と思う。

この半年はよくそういうことを考えた。

大きな流れの中で生かされてるんやな、と。

畏敬の念を持ちつつも

恐怖を覚えつつも

恨みを感じつつも

私たちは生きてくんやろう。

また明日がやってくる。

誰にでも明日がやってくる。

そうやってまた『日常』が生まれる・・・。




posted by soulive9 at 22:22| Comment(0) | 震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月23日

被災地へ あとがき

書きそびれた事を少し・・。

1:

ボランティア活動のためにいろいろ装備をそろえていったのですが

岩沼市のセンターには何でも揃っていました。

長靴、手袋、ゴーグル、マスク、シャベル、フォーク、一輪車、

バケツ、タオル、資材洗浄用のウォータージェットや大きなタライもありました。

お菓子や、薬、石鹸、トイレットペーパーもありました。

どうやら4月半ばまではかなり厳しかったようですが今では物資は足りているようでした。

皆さん休憩中はポットのお湯でインスタントラーメンやコーヒーを作っていて、

食べ物がない!!ということはないようでした。

(運営スタッフさん達は皆、一斉にカップ麺を食べるので異様な光景でした)


2:

現地の人と会話をしていると、特に年配の方などと、

方言で何を言ってるのかわからないことがありました。結構必死でした、笑。


3:

ボランティアセンターの近くにはテント村があってそこには長期で滞在している

「テント村の村長さん」がいました。白髪のおじさんですが百戦錬磨のオーラがあり、

温和でテント村の秩序も守っていることから一目おかれていました。

いつも一番で受付されていました。


4:

僕が毎晩、癒されていたスーパー銭湯。ここにはサウナがあり、僕も利用しました。

広い室内に若い男の子と僕だけになり、僕は筋肉痛もあるのでストレッチを始めました。

床で伸脚をする時、こけそうになるので座っていたベンチを掴みました。

すると蒸気で湿っていて手がすべり、僕は真っ裸のまんま

「ぼふんっ!」

と大股をひろげてしりもちをつきました。

しかし、室内は静寂・・。男の子は無反応でした。

せめて、笑うか「大丈夫ですか?」とか言って欲しかった。

ここ、東北では銭湯にも地獄がありました・・。


5:

2日目の午後に行った一番記憶に残っている依頼主のお宅。

必死で作業する中、瓦礫置き場に行く時に通る唯一の道に

「蒸しパンミックス粉」

が落ちていました。依頼主の持ち物なのか、流れてきたものなのかは不明ですが、

なぜかメンバーの誰もが無視して拾わないんです。

みんな、スルーしたり、跨いだり、通り過ぎたり。

一体、この「蒸しパンミックス粉」には何があるというのか!?

ここまで無視されていると真剣な作業中なんですけど妙におかしくなってきて、

(実はこの粉の袋は20キロぐらいあるとても重たい袋なのか!!?)

(みんな知ってて、あえて触らないのか!?)

とか、僕はおそれおののくようになってしまい、結局、誰一人触らず作業を終えました。

・・・アンタッチャブル・ザ・蒸しパンミックス粉


6:

ファブリーズにはお世話になりました。

毎日、軍手と厚手の作業用手袋は汗でビチャビチャ。

そこでファブリーズして干すと翌日にはいい感じで乾き臭くもありませんでした。

車の中に荷物を全部いれて、しかもそこで寝るので、だんだん車内が臭くなってきますが、

ファブ様のおかげで悶えることなく過ごせました。



最後に



震災から2ヶ月がたち、少しずつメディアの報道も減り、ガソリンや食料が元に戻ってくると

人々の関心が被災地から薄れてきているように感じてしまいます。でも・・、

僕はボランティア活動やボランティア精神というのは

他人から促されて動くものではないと思っていますし、

案外、人は普段どおりに生活していても何かと被災者の役にたっているんじゃないかと思います。

普通に働いたり、モノを買えば税金が発生しますし、

回りまわって復興資金として使われるでしょうし。

なので1人が名誉モノのものすごい活動や働きかけをしなくても、

何気ない普通の1人が元気に生活していく方が

震災・復興にとって持続性と安定性があるとおもいます。

ありきたりですが、1人1人がちょっとずつ、少しずつでいいと思います。

僕は今回、普通の1人として、現地で少しタンスと、瓦礫と、泥を動かしました。

それでいいと思っています。まだまだ悲惨な現場で瓦礫や泥だらけですが、

「1人が少し」

でいいと思います。

そして、東北の人は真面目で、忍耐強い印象を持ちました。

特に年配の方々はタフです。同じ日本人として尊敬しますし、誇りに思いました。

これからも僕は被災地を応援していきたいと思いました。


以上、被災地ボランティア報告でした。

ありがとうございましたー。

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最終日、最後の仕事を終えて・・・。






posted by soulive9 at 11:57| Comment(0) | 震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月22日

被災地 4日目 最終日

最後の夜もとても寒かったです。

カイロ張って、タイツはいて、ウインドブレーカー着て、

それでも寒さと狭さで何度も目が覚めました。

4日目、最終日は午前だけボランティアをして、

午後には車を返して、夕方には仙台空港から伊丹に帰る予定でした。

いつものようにセンターで歯磨き、トイレ。

すれ違うスタッフさんやボランティアの方たちと「おはよう」のやりとり。

センター隣りの幼稚園では小さな怪獣たちが所狭しと暴れまくっていました。

仮設住宅にいるマスコット犬は手を振る代わりに尻尾をフリフリ。

天気もよく、清清しい朝でした。


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さらばセンター。


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大きな幼稚園。


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逆光まぶしい。さぁ働きまっせ〜。


最後の仕事も泥かき。7人チームで出発。今回もリーダーに。

初めてのおじさんが2名。女の子が1名入っていました。

場所は大きな床屋さん。床板を外した後の床下の泥かきでした。

初日の午後のお宅と同じパターンでした。

ちょっとてこずったのが全部の床板が外れているので歩くのに苦労したことと、

一輪車を持ってきたのですが、床がないので持って入れず。

急遽、依頼主さんが外していた板をひきつめて道を作り、一輪車を中に入れました。

粉塵が舞う中、部屋ごとに班を作って泥かき。ここでもやはり松の木の枝が。

途中、ヒヤッ!!としたのがひいた板から足を踏み外してこけそうになる人がいたこと。

シャベルを持って、受身もとれず釘やとがった木の破片が散乱する中での作業ですから、

落ちそうになる人を見ると冷や汗がでました。

特に心配だったのがボランティア初めてのおじさん2人。

やる気がありすぎて無茶をしてしまいます。

一輪車にも泥を満杯までいれてフラフラで狭くて不安定な板の上を押していきます、

今にもこけそう!

思わず「少しずつ、ゆっくりいきましょうー」と言ってペースダウンしてもらいました。

2時間の作業で全部完了。息のあったチームでした。

僕は最後の仕事になるので思いいれも強く、ほうきで家の中をきれいに掃いていきました。

3日目の大工さんたちの仕事を思い出しました。丁寧に丁寧にはきました。

女の子が「荒木さんは、お仕事は大工さんですか?」と、笑。

こんなガリガリの大工さんはいない!笑

送迎バスが来るまで依頼主さんと話をしました。

津波は床上50センチまできたと。目の前が養鶏場だったので鶏の死体と卵が庭まで流され、

腐って異臭を放っていてとても辛かったと。やっと奥さんと2人で大きな瓦礫を片付けれたこと。

2人ともに2ヶ月でかなり痩せてしまったこと。

何より寒さが辛かったと。2階で生活をして電気・ガスが使えないので極寒だったと。

夕方6時にはもう布団に入らないと、寒くてどうにもならなかったこと。

僕は車中泊での寒さを思い出しました。あの時点で8℃。しかし3月の東北は氷点下でした。

ここでも現地に行ってみて初めて実感がわきました。

自分が体験してみて本当に被災された方々の大変さが分かりました。

僕が京都から来ていること、夕方には帰ることを伝えると奥さんが深々とお辞儀をされて

「遠いところからありがとうございます、本当に助かります」と。

印象的だったのは仙台市出身のボランティアの方からもお礼を言われたこと。

仙台市だろうが岩沼市だろうが

被災地に来てくれたということに対する気持ちだったのだろうと思いました。

センターに戻り活動報告。

センター内にはボランティアのための様々な差し入れや、被災地への応援メッセージ。

顔見知りになったボランティアの方々や、いつもお菓子を渡してくるおばさんスタッフ。

目に焼き付けて帰り支度をしました。

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お菓子やビタミン剤、飲み物。


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応援メッセージ。


こうして僕の3泊4日のボランティア活動は終わりを向えました。

名取駅で車を返し。仙台空港へ。再び瓦礫に囲まれた道を通っていきました。

道路の周りに瓦礫があるんじゃなくて、かろうじて瓦礫の中に道路があるような感じでした。

4時の飛行機で家に帰ると7時。飛行機はやはり早い!

その夜は、久しぶりに大きな布団で足をまっすぐにして、温かくして眠れました。

10時には寝ました。

「大きな布団で足をまっすぐにして、温かくして眠れました」

これって被災者の方々がずっとずっと望んでいることですよね?

京都に戻っても改めて震災の現状を再認識しました。

一夜明けてようやく今回のボランティア活動が終わったんだなと思えました。

3月11日から思い続けていたことを実行できたことに少しほっとした気持ちもありますが、

引き続き被災地には意識を向けていきたいと思っています。

僕の話を読んで少しでも被災地に意識がいけばいいなと思っています。

僕の働いている店でもひょっとしたらボランティアに行くかもしれません。

店長は東北の食べ物を取り寄せて向こうにお金を落とそうか、とも言ってましたし。

ちなみに店長も同じ時に日帰りで仙台市にボランティアで行ったそうで、

やっぱ鉄人です。新幹線の中でも事務仕事してたそうです。すごい・・。

つづく。
posted by soulive9 at 13:22| Comment(0) | 震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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